古代の女性論



唐代の女性をめぐる社会状況



 唐代の女性たちの中で、これまで人々から忘れ去られることのなかった人物は一人だけだろう。それこそ中国史上「前に古人を見ず、後に来者を見ず」(唐の詩人「陳子昂」の句)と称された女性皇帝武則天(則天武后)である。たとえあなたが彼女を讃美しようと憎悪しようと、彼女を歴史から抹殺することはできない。まず彼女のことから話を始めようと思う。
 古代中国において、后妃(皇后と妃娘)が政治を勤かすのはもともと稀なことではなかった。彼女たちは幼主を抱いて簾の奥で政権を握ったり、あるいは皇帝を利用して寝物語に政局を左右したりし
た。すなわち、唐代以前には秦の宜太后、前漢の呂后・賓后・王后、後漢の馬后・郵后など六人の皇后、西晋の庚后・袷后、北朝の馮后・胡后・婁后、隋朝の独孤后などがいた。唐代以後には、北宋の劉后・曹后・高后・向后・孟后、南宋の楊后・謝后、明朝の張后、清朝の慈安(東太后)・慈禧(西太后)の両太后などがいる。
 彼女たちはみなことごとく政治に介人し、甚だしい場合は政権を一人で牛耳り、古代史上、皇帝の冠を戴かない女性の統治者となった。しかしながら、彼女たちは大権を掌握したとはいえ、自分の傀儡(夫や子である皇帝)を押しのけて、皇帝に隷属する后妃の身分を変えてしまうようなことは決してしなかった。武則天は唯一の例外である。ただ彼女だけが公然と簾の奥から躍り出し、堂々と真の女帝になったのである。唐代人の筆になった、ある「宜都の内人(宮人)」は、次のように彼女を称讃している。「古には女神の女蝸がいたものの、これはれっきとした天子ではなく、伏磯が九州(仝国古を治めるのを于助けしただけだった。また後世、閑房をとびだして天下のことを裁決した女性も出たが、みな正統な地位を得たのではなく、愚かな主人を補佐するか、あるいは幼い皇帝となったわが子を抱いて権力を振ったにすぎない。ただ。天子さまこ武則天)だけは、天の姓を革め、唇と腕環を取り去って帝冠を戴き、璃祥も日ごとに現われ、大臣もそれをどうにもできないという真の天子になられたのである」(『全唐文』巻七八〇、李商隠「宜都内人」)。
  一説によれば、この「真の天子」は、容姿端麗であったため、十四歳の時、唐の太宗の後宮に召されて「才人」という妃嬪の一身分を与えられ、「武媚」という号を賜った。しかし、太宗の死後、尼寺に追われて尼僧にされた。ところが、武媚は早くから皇太子の李治と恋仲であったため、彼が即位して高宗となった後、尼寺で再会するや二人は旧情にかられ、向い合って泣いてやまなかった。かくして、武則天は再び召されて後宮に入り妃娘となったのである。
 このもともと智謀にたけ、また文学、歴史の教養を兼ね備えた女性は、まず後宮において皇帝の寵愛を争うため様々な策謀をめぐらせ、恋敵を倒して皇后にのし上がった。その後、高宗が病にかかり、彼女が朝政を代行すると、なんと「事を処置してすべて天子の御意に叶い」、これ以後「政治には大小となく、みな天子とともに携わり」、次第に「天下の大権はことごとく皇后に帰し、官僚の任免、処罰や生殺与奪の権はすべて彼女のロから決せられるようになり」、天子はただ「手をこまねいて眺めるだけとなった」(『資治通鑑』巻二〇〇、高宗顕慶五年、同巻二〇一、高宗麟徳元年)。 高宗の死後、彼女はあいついで二人の息子を皇帝に立てたが、その後すぐに彼らを廃し、ついには歴史に前例のない第一歩を踏み出して、唐の命を革めて「周」とし、正式の開国の皇帝となった。彼女は中国政治史上の一つの奇跡をつくりだしたのである。

 この奇跡とそれを生みだした人物が唐代に出現したことは偶然であろうか。たぶんいくらかは偶然であろう。筆者は次のように考えてみた。もし高宗が父太宗の在位中に武則天と親しく知り合わなかったならば、もし後に高宗が武則天を尼寺に置き去りにして再び旧情を温めることがなかったならば、もし高宗が病気にならず、また武則天に政治を任せようと思わなかったならば、また、もし武則天がこのように才能のある女性でなく、あるいはもともと皇帝になろうなどという気持をもったりしなかったならば、等々の場合には、おそらく中国史上にこのような女帝が出現する可能性は仝くなかったであろう。しかしながら、さらにもっと根本にまで原因を探ってみると、かえって私たちは偶然のように見える原因のなかに、いくらかの全くの偶然とはいえない要素がどうやら含まれていることを発見するのである。また次のようにも考えてみる。なぜ高宗は父皇帝の妃嬢と恋愛関係を持てたのであろうか。また、なぜ高宗はこともあろうに父皇帝の「未亡人」を再び後宮に入れ、あろうことか公然と「天下母道の模範」たる皇后に立てることができたのであろうか。なぜ武則天は女に生れたのにあのような政治的才能、教養、強烈にして剛毅な性格をもつことができたのであろうか。なぜ彼女は天下の大悪事を犯し、国号を変え皇帝を称したのであろうか。また、なぜ彼女は史上前例のない女帝の身分をもって朝廷に君臨し、群臣も競って彼女に従い、彼女は打倒されなかったのであろうか。およそこれらのことは、結局はあの唐代という時代の社会風潮と深い関係があるのである。武則天という、この女帝が唐代に出現するのには、深い時代的背景と厚い社会的基盤があったのであり、あるいはまた、唐代の女性仝体が置かれた社会的地位や諸相と密接不可分の関係があったのである。
 以下、中国古代社会における唐代の女性の特殊な地位と、そのユニークな姿を観察してみよう。

 原始時代の母権制がその歴史的使命を果し、その寿命が尽きた時、「男尊女卑」は誰も疑うことのない人の世の道徳的規範となった。エングルスは『家族私有財産及び国家の起源』において、この歴史的変化について「女性にとって世界史的意義を有する失敗」といった。この失敗はおよそ、逃れられない劫難」であり、これはまた人々にいささかの悲しみを感じさせずにはおかなかった。なぜならそれはずうっと数干年間も続いたのであるから。その時から、中国の人ロの半分を占める女性たちは、未来永劫にわたって回復不可能な二等人となり、二度と再び他の半分である男性と平等になることはなかった。かくして、男を生めば「弄璋」(衡をっかむ)といい、女を生めば「弄瓦」(瓦をつかむ。古代、女子が生れると糸巻を与える習慣があった)といった。そこで、「婦は服するなり」、「婦人は人に伏すなり」ということになり、「女子と小人(奴僕)は養い難し」とか、「三従四徳」を守れとか、「餓死しても小事であり、貞節を失うことの方が大事だ……」といった価値観が生れた。中国の女性は、数千年間もこのような哀れな境遇の中でもがき苦しんだのである。ずっと後の今世紀初頭になって、民主革命(辛亥革命)のかすかな光が彼女たちの生活にさしこみ、こうした状況初めてわずかばかりの変化が生れたのであった。
* 女は幼い時は父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うという三従を守り、婦徳、婦言、婦容、婦功の四つの徳を持たねぱならない、という儒教の教え。

 唐代三百年間の女性たちは、この数千年来低い地位に甘んじてきた古代女性たちの仲間であった。彼女たちは先輩や後輩たちと同じように、農業を基本とする男耕女織の古代社会において、生産労働で主要な位置を占めず、経済上独立できなかった。この点こそ、付属品・従属物という彼女たちの社会的地位はどの王朝の女性とも変わらない、という事態を決定づけたのである。しかしながら、唐代の女性たちは前代や後代の女性たちと全く同じだというわけでもなかった。先学はかつて次のように指摘したことがある。「三千年近い封建社会の女性に対する一貫した要求は、貞操、柔順、服従にほかならず、例外はきわめて少なかった。もし例外があるとすれば、それは唐代の女性たちにほかならない」(李思純「唐代婦女習尚考」『江村十論』、上海人民出版社、一九五七年)。筆者は、さらに一歩進めて次のように言うことができると思う。唐代の女性は中国古代の女性たちの中でわりあい幸運な部類であったと。なぜなら、彼女たちは他の王朝、とりわけ明清時代という封建末期の女性たちに比べると、社会的地位はあれほどまでに卑賤ではなく、また蒙った封建道徳の束縛と圧迫もやや少なめであり、まだ比較的多くの自由があった。『古今図書集成』(清の康煕帝の命にょり編纂された類書)は、別の角度から一つの傍証を与えてくれる。この類書の「閔節」「閑烈」(共に道徳的模範となる婦人を収録した巻)の両巻に収録された烈女節婦は、唐代にはただ五十一人でしかなかったが、宋代には二六七人に増え、明代にはついに三万六千人近くに達した。これらの数字の差がこれほど大きいことから、唐代の女性と後代の女性が封建道徳から受ける被害の程度に大きな差があったことが十分みてとれる。これはまさに唐代の女性のユニークにして幸運な点であり、そしてこうした幸運はまさに唐代という時代が与えてくれたものであった。

 唐代とはどのような時代であったのか。どうして彼女たちに、このような幸運を与えることができたのだろうか。その理由は二つの方面から説明することができる。まずは、三百年間も続いた大唐帝国は、まさに輝ける封建時代の盛世に言り、封娃道徳も後世のように厳格で過酷な段階にまでは発展していなかったからである。封建支配者が人々の肉休と精神を禁縛する千段としての封建道徳は、もともと支配者の必要に従って一歩一歩発展してきたものである。支配者というものは、いつだって世も末になればなるほど、人々の頭脳、身体、七情六欲を、女性の足とともに取り締まる必要があると感じるようになり、封建道徳もまた彼らのこうした感覚が目ましに強まるにつれ、いよいよ厳格に、かつ周到になっていった。
* 『礼記』の記載にある喜、怒、哀、馥、愛、悪、欲の七情と、生、死、耳、日、ロ、鼻の六つから発する欲。

 先秦時代(秦の始皇帝以前の時代)から唐代以前まで、どの時代にも常に女道徳を称揚する人がいたけれども、大休において支配者たちはまだそれほど切迫した危機感がなかったので、女性に対する束縛もそれほど厳重ではなく、彼女たちもまだ一定の地位と自由をもっていた。ただ宋代以降になると、支配者たちは種々の困難に遭遇し、自分に対して日ごとに自信を喪失したので、道徳家たちはそこで始めて女性に対するしつけを厳格にするようになった。明、清という封建時代の末期になると、封建道徳はますます厳格になり、完備して厳密になり、残酷になり、ついには女性を十八界の地獄の世界に投げ込むことになった。まさに封建社会の最盛期にあった唐朝は、非常に繁栄し強盛であったから、支配者たちは充分な自信と実力を持っており、人々の肉体と精神をさらに強く束縛する必要を感じなかったため、唐朝は各方面でかなり開明的、開放的な政策を実施したのである。このようにして、唐代の社会はその特有の開放的な気風によって古代の輝かしい存在となった。こうした社会の気風はおのずから女性たちの生活の中にも波及し、もともと比較的緩やかであっ・た封建道徳を強化発展させなかったばかりか、逆にいくらかの方面で弱めさえしたのである。
 もう一つの重要な原因は、唐代は漢民族が「胡化」(西・北方民族への同化)し、民族が融合した時代であったことである。この時代においては、少数民族の文化、習俗の影響はきわめて強烈であり、それらは社会生活の各領域に漆透し、中原の漢民族の道徳観念に大きな打撃を与えた。いわゆる「胡化」の風習には二つの来源があった。一つは唐朝の李姓の皇族自体が北方少数民族の血統であり、彼らはかつて長期にわたって北方少数民族と生活を共にし、また釈が族が樹てた北魏から台頭し、その後、鮮卑族を主とする北朝政権を直接継承したがゆえに、文化、習俗において北朝の伝統を踏襲し、「胡化」の程度がきわめて深かったのである。唐は天下を統一すると、さっそくこれら北方少数民族の習俗を中原にもたらした。まさに朱子が論じたように「唐の源は夷秋であったから、家庭の礼儀作法に欠けるところがあったのも不思議ではない」のである(『朱子語類』巻言一六、歴代三)。   

 さて、来源の第ニは、唐代には各民族の間の交際と国際交流が空前の繁栄をみ、雄渾な精神をもっていた唐朝が「蛮夷の邦」の文物や風習に対しても来る者は拒まず差別なく受け入れ、さらに「胡化」の風習が日ごとに盛んになるのを助長したことである。当時、唐の周辺にあった少数民族の国々には、鮮卑はもちろん、その他に突坂、契丹、吐谷渾、党項などがおり、彼らの婚姻関係はどこもかなり原始的であった。それゆえ女性の地位はわりに高ぐ、極端な場合には女尊男卑できえあって、女性の受ける拘束も少なく、比較的自由奔放であった。たとえば、盛唐時代の少数民族出身の将軍安禄山は自らについて、「胡人は母を先にし、父を後にする」(『資治通鑑』巻二I五、玄宗天宝六載)といったことがある。「その俗は、婦人を重んじ男子を軽んずる」少数民族もあった(『旧唐書』南蛮西南蛮伝・東女国)。女性が権力を掌握する制度や習俗をまだ保持している民族や国家もたくさんあって、日本、新羅、林邑、東女(唐代、中国南方の少数民族)等の国には女王、女官がいたし、また回屹、突叛等の民族でもよく女君主が攻治を行うことがあった。その他に、北方少数民族の大半は遊牧民族であり、女性たちは農耕や織物をする中原地区の女性とは異なり、馬に乗って放牧したり、狩猟をしたりして、大砂漠や大荒原を縦横に駆けまわったので、しぜんに一種の剛悍、勇武、雄健の風を身につけた。少数民族の気風の影響を受けて、北方の女性は古来地位はわりに高く開放的であった。北朝の顔之推は、「?(北朝の都、現在の河北省臨潭県)下の風俗では、もっぱら家は女で維持されている。披女らは訴訟をおこして是非を争ったり、頼みごとに行ったり、人を接待したりするので、彼女らの乗る車で街路はふさがれ、彼女らの着飾った姿は役所に溢れている。息子に代って官職を求め、夫のために無罪を訴えているのである。これは恒、代(鮮卑族の建てた北魏王朝が最初に都を置いた現在の大同一帯の古地名)の遺風であろうか」(『顔氏家訓』治家)と述べている。これら異民族の習俗と北朝の遺風は、李氏による唐王朝の娃国とその開放的な攻策によって、絶えることなく中原の地に泗々として流れ込み、さらに唐王朝の広大な領域に波及し、もとからあった封娃的な道徳と束縛に強烈な打撃を与えた。

 以上のような種々の原因によって、唐朝はこの王朝特有の「家庭の風紀の乱れ」、「封建道徳の不振」という状況を生みだした。こうした状況は後世の道学者たちの忌み嫌うところとなったが、しかし逆にこの時代に生きた女性たちにはきわめて大きな幸運をもたらし、彼女たちが受ける抑圧、束縛をいささか少なくしたので、彼女たちは心身共に比較的健康であった。こうして、明朗、奔放、勇敢、活発といった精神的特長、および独特の行勤や風格、思想や精神などが形成されたのである。 歴史絵巻は私たちに唐代の女性の生き生きとした姿を示してくれる。
 彼女たちはいつ到出して活動し、人前に顔をさらしたまま郊外、市街、娯楽場に遊びに行き、芝居やポロを見粧レた。毎年春には、男たちと一緒に風光明媚な景勝地に遊びに行き、思うぞんぶん楽しむことさえできた。「錦を族め花を攬めて 勝遊を闘わせ、万人行く処 最も風流」(施肩吾「少婦遊春詞」)、「三月三日 天気新なり、長安の水辺 麓人多し」(杜甫「麗人行」)などの詩句は、みな上流階級の男女が春に遊ぶさまを詠んだものである。

 彼女たちは公然とあるいは単独で男たちと知り合い交際し、甚だしくは同席して談笑したり、一緒に酒を飲んだり、あるいは手紙のやりとりや詩詞の贈答をしたりして、貞節を疑われることも意に介さなかった。白居易の「琵琶行」という詩に出てくる、夫の帰りを待つ商人の妻は夜半に見知らぬ男たちと同船し、話をしたり琵琶を演奏しあったりしている。それで、宋代の文人洪邁は、慨嘆して「瓜田李下の疑い、唐人は磯らず」(『容斎三筆』巻六)といった。
* 「瓜田に履を入れず、李下(すももの木の下)に冠を正さず」の格言に基づく、疑われやすい状況のたとえ。 彼女たちは「胡服騎射」を好む気風があり、胡服戎装(北方民族の軍装)をしたり、男装したりすることを楽しみ、雄々しく馬を走らせ鞭を振い、「暫を露わにして〔馬を〕馳聘せた」(『新唐書』車服志)またポロや狩猟などの活勤に加わることもできた。杜甫の詩に「輦前(天子の車の前)の才人(女言弓箭を帯び、白馬は哨誓く黄金の勒。身を翻し天に向かい仰ぎて雲を射る、一箭正に墜つ双飛翼(夫婦鳥)」(「哀江頭」)と描写されている。馬上で矢を射る女たちの何と雄々しき姿であることか。 彼女たちは勇敢かつ大胆で、よく愛しよく恨み、また、よく怒りよく罵り、古来女性に押しつけられてきた柔順、謙恭、忍耐などの「美徳」とはほとんど無縁のようだった。誰にも馴れない荒馬を前にして、武則天は公衆に言った。「私はこの馬を制することができる。それには三つの物が必要だ。一つめは鉄鞭、二つめは鉄樋(鉄杖、武器の一種)、三つめは短剣である。鉄鞭で撃っても服さなければ馬首を鉄樋でたたき、それでもなお服さなければ剣でその喉を断つ」(『資治通鑑』巻二〇六、則天后久視元年)と。この話は唐代の女性たちに特有の勇敢で、剛毅な性格をじつに生々と表わしている。

 彼女たちは積極的に恋愛をし、貞節の観念は稀薄であった。未婚の娘が秘かに男と情を通じ、また既婚の婦人が別に愛人をつくることも少なくなかった。女帝(武則天)が一群の男寵(男妾)をもっていたのみならず、公主(皇女)、貴婦人から、はては皇后、妃娘にさえよく愛人がいた。離婚、再婚もきわめて普通であり、唐朝公主の再婚や三度目の結婚もあたりまえで珍しいことではなかった。

こうした風習に、後世の道学先生たちはしきりに首をふり嫌悪の情を示した。『西廂記』『人面桃花』『箭女離魂』『蘭橋遇仙』『柳毅伝書』等の、儒教道徳に反した恋愛物語が、どれも唐朝に誕生したことは、このJもよい証拠である。
 彼女たちの家廠における地位は比較的高く、「婦は強く夫は弱く、内(女)は剛く外(男)は柔かい」(張鷺『朝野命載』巻四)といった現象はどこにでも見られた。唐朝の前期には上は天子から下は公卿・士大夫に至るまで、「恐妻」がなんと時代風潮にさえなったのである。ある道化の楽人は唐の中宗の面前で、「かかあ天下も大いに結構」(孟柴『本事詩』嘲戯)と歌ったことで、章皇后から褒美をもらったという。御史大夫の裴談は恐妻家としてたいへん有名であったばかりか、妻は恐るべしという理論までもっていた。妻たちが家で勝手気ままに振舞っているのを見聞したある人は、大いに慨嘆して次のようにいった。「家をもてば妻がこれをほしいままにし、国をもてば妻がそれを占拠し、天下をもてば妻がそれを指図する」(于義方『黒心符』)と。

 この時代には、まだ「女子は才無きが便ち是れ徳なり」(清の石成金の『家訓齢』が引く明の陳眉公の語)という観念は形成されていなかった。宮廷の妃娘、貴婦人、令嬢から貧しい家の娘、尼僧や女道士。娼妓や女俳優、はては婢女にいたるまで文字を識る者がきわめて多く、女性たちが書を読み文を作り、詩を吟じ賦を作る風潮がたいへん盛んであった。これによって唐代には数多くの才能ある女性詩人が生れたのである。女道士の魚玄機はかつて嘆息して、「自ら恨む 羅衣の 詩句を掩うを、頭を挙げて空しく羨む 榜中の名(女に生れて詩文の才を発揮できないのが恨めしい。むなしく科挙合格者の名簿を眺める)」(「崇真観の甫楼に遊び、新及第の題名の処をrる」)と詠んだ。この詩句は、女性が才能の点で男性に譲らぬ自信をもってはいるが、男とともに金榜(科挙合格者発表の掲示板)に名を載せ、才能を発揮できない無念さをよく表している。

 以上の説明でも、まだ鮮明なイメージをもてないならば、永泰公主(中宗の七女、武則天の孫娘)等の墓葬壁両、張萱の描いた「貌国夫人游春図」などの絵両、さらには大量に出土した唐代の女俑(墓に副葬された女型の人形)をち太っと見てほしい。そうすれぱ唐代の女性の、あの「胡服騎射」の雄々しい姿、胸もあらわな妖艶な姿を実際に目で見ることができ、開放的な時代の息吹きを強く感じることができると思う。まさに「三寸金蓮」(纏足で小さくされた足)に折り曲げられなかった自然の足のように、彼女たちはまだ完全には封建道徳によって束縛、抑圧されて奇形になってはおらず、なお多くの自然らしさと人間らしさを保っていた。ここに彼女たちの幸運があった。

 まさに唐代の世相と女性たちが、武則天のために皇帝を称する雰囲気をつくり、足場を用意し、チャンスを提供してやり、彼女に太宗の妃妾から高宗の皇后になり、さらに政治に参与し、皇帝になる機会をかち取らせたのである。また、朝政を握った後、彼女がさらに一歩進んで国号を改め皇帝を称する可能性を開き、しかも社会や朝臣にそれを受け入れさせたのである。さらにまた、彼女が古今の歴史に通じ、政治の機微を知り臨機応変に対応することができる政治的トレーニングと剛毅、果断な政治家的素質を身につけて、高宗を威圧し、群臣を思いどおりに勣かし、反乱を鎮圧し、それによって女帝の玉座を安泰なものにするようにしたのである。

 唐代の卦たちが武則天という天の騏女(奔放で尊大な女性)を世に押し出し、そして武則天が女帝になっなごとは、男尊女卑の伝統観念を揺り動かし、当時の女性の地位と社会の気風に影響を与えずにはおかなかった。彼女は皇帝を称するという、この驚天勤地の行為によって男尊女卑に挑戦しただけではなかった。彼女は権力掌握の後にも、また意識的に様々な手段で女性の地位を高めたのである。たとえば内外の命婦(天子から称号を賜った貴夫人)を率いて、古来ただ男性だけで挙行していた祭礼に女性も参加させた。また、皇后の身分で命婦と百官を一緒に招き、宣政殿での盛大な宴会に参加させた。武氏の親族の夫人たちを召見し、あわせて宴席に招待した。また故郷の婦人で八十歳以上の者を郡君(四晶官の官僚の妻に授与された封号)に封じた。さらにまた、子は父の喪には三年服し、父が在世の時には母の喪にただ一年服せばよいという古来の礼の規定に異議を提出し、まず父が在世でも子は母の喪に三年服すという礼制を公布施行した。それにまた、古今の才女を大いに顕彰したりもした。これらの措置によって男尊女卑という社会全体の基本状況が変革されたわけでばなかったが、しかし確実に当時の気風に影響を与え、女性の地位を高めたのである。

 唐の李商隠のはなはだ興味深い文章「宜都の内人」に、次のような話がある。武則天には男の愛人が多すぎたので、ある内人は婉曲に諌めようと思い、彼女に次のような道理を説いた。「古来からずうっと女は男より卑しいものでした。ただ貴女様だけが真の天子になることができたのです。ただ女は陰、男は陽でございますから、陽が尊であれば必ず陰は卑となります。陽が消えて陰はは犬じめて志を得ることができるのです。男妾が多すぎれば、勢い必ず陽が勝ち陰が衰えて、天下は長く続くことができません。ですから男妾を退けて独り天下に立つべきでございます。こうして一億年もたてば、男は益々勢いを削がれ女は益々勢いを専らにして行きます。私の願いはここにあるのでございます」(『全唐文』巻七八〇)と。この宜都の内人は、武則天が皇帝を称したことから、なんといつの目にか陰と陽を顛倒し、乾と坤を逆転し、男が勢いを削がれ女が勢いを専らにする世界をつくろうと思ったのである。このような考えはじつに大胆というべきではないか。上記の話は真実か否かは断定できないが、もし事実だったとしたら、そうした考えは唐代の女性だからこそ考え得ることである。そして少なくとも唐代の、武則天が皇帝を称した時代に、人々が有史以来宇宙の法則であると考えてきた男尊女卑に懐疑と異議を提出したことを示している。たとえこの話が根も葉もないことだとしても、唐朝の士大夫である李商隠がこのような文章を虚構として書いたということ、これは武則天の皇帝即位が人々の心の中にある伝統的な男尊女卑の観念を確実に揺り動かしたことを表している。ずっと数百年も後の明代になってもまだ、武則天に対して「女の分際で男を統治し」、高位高官たちが「男なのに女に事えた」と、大い仁憤慨した人がいる(袁黄等『綱肇合編』巻二二「唐朝総論」上)。武則天が皇帝に即位したということが、伝統的観念に与えた衝撃がいかに強烈なものであったか、影響がいかに深刻なものであったかが分かる。
 当然次心ように言うべきであろう。唐代の社会の気風と女性の地位は女帝をつくり出したが、女帝の方もルた時代の気風を推し進め助長したと。上に列挙した唐代の女性たちの開放的で躍動的な姿と生活について、武則天の功績が全くなかったなどと誰がいうことができようか。




唐代女性の各階屑の状況

 果てのない長い夜、あばらやに住む貧しい女は、織機の前で夜もすがら披を動かし手を休めず働くが、宮府の税の催促に悲しみで腸がちぎれそうだ。後宮の美人は珊瑚の枕の上でたえず寝返りをっち、天子の寵愛の衰えたことに悲しみの涙を流す。同じ女でも身分、地位が異なり、彼女たちの生活、境遇、感情、心理もそれぞれ異なる。唐代の女性を理解しようとすれば、まず各階層の女性たちの生活状況をそれぞれ観察しなければならない。

 唐代三百年間の女性の人数を正確に測る方法はない。しかしある時期の人数はだいたい計算できる。記録によると、唐代の最大の人ロは天宝十三載(七五四年)の五二八八万四八八人であり、この数字で計算すれば、半分が女性と仮定した場合、女性が最も多かった時、二千六百余万人に達したことになる。
 二千数百万人の女性は、それぞれ異なった階層に属していた。披女たちはおよそ次の十種に分けることができる。

一 后妃、


二 宮人、


三 公主(附郡主・県主)、


四 貴族・宦門婦人、


五 平民労働婦人、


六 商家の婦人、


七 妓優、


八 姫妾・家妓、


九 奴婢、


十 女尼・女冠(女道古・女


以上である。以下それぞれに分けて彼女たちの生活、心理状態などを述べたいと思う。叙述の都合により、后妃と宮人はまとめて一節に書くことにする。