基本となる詩集のサイト
kanbun-iinkai |
五代十国・宋詩 花間集 |
(このページ・HPは繁体文字(難解文字ユニコード)が変換されないので?の場合があります。できるだけ意味を優先し当て字に変えることとしています。)
|
|
花間派は、作品が五代の詞集『花間集』に収録された詞家を指す。代表人物に温庭?・韋荘・張泌らがいる。 |
一般に花間派は、唐代の温庭?に起源を持ち、五代の時の後蜀で繁栄したとされる。 |
厳格な意味で言えば一派をなす訳ではないが、一般に花間派とは、この種の文学形式が民間歌曲を経て文人の創作へと到るものを指す中間形態である。 |
花間集,五代十国詩,宋詩 詩集 トップページ
唐朝滅亡後、宋朝が興るまでの間、中原では五代に亘って王朝が交替し、江南を始めとする各地では、小国が分立した。 三国演義風に云うと、天下大勢,合久必分というわけである。この間の小国分立時代を五代または、五代十国と呼ぶ。この時代は、唐最後の皇帝の譲位から宋建国までの五十余年間と、短い。
その十国のなかに後蜀(大蜀=蜀。大は美称)という国があり、そこの趙崇祚が編集した詞集が『花間集』である。
『花間集』とは、唐末・開成元年(836年)から後晋・天福五年(940)までの晩唐五代の詞人の作品を集めた填詞集名である。編者が後蜀なので、蜀人のものが多い。全十巻構成(流布本によって多少動きがある)、各巻五十首(巻六は五十一首、巻九は、四十九首)で、計五百首になり、温庭外十七家、五百首が集録されている。その内、温庭のものがトップに位置し、 最多数(一割強:六十六首)であり、詞集全体の方向性も打ち出しており、極言すれば、(とりわけ巻一、巻二等は、)温庭集(?)とも謂えるものになっている。他の詞人は、 掲載詞数から云えば、温庭に次いでは 孫光憲が多く、更に顧夐、韋莊と、ここまでが目立った詞数である。引き続いて、李洵、牛、毛文錫、毛煕震、張泌、和凝、薛昭蘊、歐陽炯、魏承斑、皇甫松、牛希濟、閻選、尹鶚、鹿虔yi3となっている。掲載順次で云えば、温庭、皇甫松、韋莊、薛昭蘊、牛、張泌…となり、些か異なってくる。欧陽烱
編集の傾向は、歐陽炯がその序文でも「…則有綺筵公子,繍幌佳人,遞葉葉之花箋,文抽麗錦;擧繊纖之玉指,拍按香檀。不無C絶之詞,用助嬌態」と述べているとおり、殆どが男女間の情事、春恨を謳っているものからなっている。それは、近体詩の荘重な表現形式では盛りきれないものであるが、同時に、文人≒知識人≒君子≒指導階級が触れてはならない世界であった。可憐なものから過激で濃艶なものまで、多様な作風が集められている。実際、顧夐など、その作風があまりにも濃艶なため、彼は自己の栄達後に、自作詞集を集めさせて焼却処分をしたという例もある。そのような(前出・顧夐や和凝の)過激すぎる作品は、さすがに編輯の段階で落とされている。(それらの作品については「香残詞」の頁を参照)
内容については、形式的には、宋代の詞よりも小令が多く、短いものが主流である。当然詞牌、詞調も傾向が決まってくる。概括して言えば、宋詞に比べて短く、詞調も単純なものが多く、宋詞に比べて変化に乏しい。詞牌をみれば、例えば、菩薩蠻、浣溪沙、更漏子など、填詞の勃興期のものということがよく分かる形式のものが多い。表現内容は、婉約の詞語を多用し、口語も使った表現で、男女の間に起きることを採りあげてうたっている。
『花間集』は、その多くが情愛の詞である。この一派を花間詞派という。花間詞派や南唐詞派(南唐中主・李m、南唐後主・李U)、馮延巳などの流れを受け継ぎ、宋代になって大成された詞の本流とも謂える大きな流れがあるが、これらの詞を婉約詞(派)という。本サイトでは「香残詞」という婉約詞集の頁を作り、幅広く婉約詞を集めている。
『花間集』が後世に与えた影響は大きく、詞といえば花間詞派等のからの婉約詞を意味するような雰囲気になり、日本語で「小唄、端唄」などと訳されたのも、ここから来ている。なお、『花間集』という名の由来は、或いは「花の間」≒「女性の近く」、或いは序文を著した歐陽炯の「賀明朝」から来ているのかも知れない。
『玉台新詠』(玉臺新詠、ぎょくだいしんえい)は、中国の南北朝時代に編纂された詩集。『玉臺新詠集』ともいう。全10巻。陳の徐陵の撰。ただし実際には、梁の簡文帝が皇太子(東宮)時代に徐陵に命じて編纂したものといわれる。漢代以来の「艶詩」や、当時流行した「宮体詩」(「宮体」とは「東宮の詩体」の意味)と呼ばれる、男女の情愛をうたった艶麗な詩を中心に収録する。
題 名 |
著 者 |
出版社 |
年代 |
玉台新詠集 (上) |
鈴木虎雄 |
岩波文庫 |
1953 |
玉台新詠集 (中) |
鈴木虎雄 |
岩波文庫 |
1955 |
玉台新詠集 (下) |
鈴木虎雄 |
岩波文庫 |
1956 |
新釈漢文大系60玉台新詠 上 |
内田泉之助 |
明治書院 |
1974 |
新釈漢文大系61玉台新詠 下 |
内田泉之助 |
明治書院 |
1975 |
玉台新詠索引―附玉台新詠箋註 |
小尾郊一・高志真夫編 |
山本書店 |
1976 |
中国の古典25 玉台新詠 |
石川忠久 |
学習研究社 |
1986 |
「古詩源」は清代の学者沈徳潜の著した中国古代の詩歌拾遺集である。帝王の時代から隋の時代に至る古詩976篇を集めている。古詩を集めたものとしては、すでに古くから「文選」や「玉台新詠」などがあり、そのほかにも楽府歌辞を集めたものなどがあったが、沈徳潜は自分なりの考えに基づいてコンパクトな詩集を作ったのである。
古詩という言葉には、唐以前の古い時代の詩という意味と、唐代に確立された近体詩に比較した古体の詩という意味とがある。古詩源に取り上げられているものはすべて隋以前のものであるから、時代も古く詩体も古体によっていることはいうまでもない。
古詩には楽府歌辞のように楽器を伴って歌われたものと、古詩十九首のようにもっぱら吟詠されたものとがある。古詩源はそのいずれをも取り上げている。
帝王の時代から秦までの古い時代に属するものを「古逸」と題して最初の部分に納めている。上古の時代の詩の中には、孔子によって詩経に治められたもの三百篇がある。
李白集校注
杜詩詳注
(杜詩詳注・杜少陵集)
集註杜工部詩 全十巻
玉臺新詠 全十巻
韓昌黎詩集
韓昌黎文集校注
李商隠詩歌集解
貴族の婦人
《洛陽女兒行》 王維
洛陽女兒對門居,才可容顏十五餘。
良人玉勒乘?馬,侍女金盤膾鯉魚。
畫閣朱樓盡相望,紅桃獄垂簷向。
羅幃送上七香車,寶扇迎歸九華帳。
狂夫富貴在青春,意氣驕奢劇季倫。
自憐碧玉親教舞,不惜珊瑚持與人。
春窗曙滅九微火,九微片片飛花?。
戲罷曾無理曲時,粧成只是檮″ソ。
城中相識盡繁華,日夜經過趙李家。
誰憐越女顏如玉?貧賤江頭自浣紗。
洛陽女児の行 王維
洛陽の女児 門を対えて居り、機かに容顔 十五余りなる可し。
良人は玉の勒もて聴馬に乗り、侍女は金盤もて鯉魚を檜にす。
両閣朱楼 尽く相い望み、紅桃縁柳 蒼に垂れて向う。
羅韓 送り上く 七香の車、宝扇 迎えて帰る 九華の帳。
狂夫は富貴にして 青春に在り、意気は鵜奢にして 季倫(晋の富豪石崇)より劇し。
自ら憐む 碧玉(侍妾を指す) 親しく舞を教うるを、惜しまず 珊瑚 持して人に与うるを。
春窓曙に滅す 九微の火、九微片片 飛花頂かなり。
戯に罷れて曾て曲を理むる時無く、汝成りて祗だ是れ香を薫らせて坐す。
城中の相識は尽く繁華、日夜 趙李(漢の美女趙飛燕と李夫人)の〔如き富豪の〕家を経過す。
誰か憐む 越女の顔 玉の如く、貧賤にして江頭 自ら紗を院うを。
これは唐代の詩人が描いた貴族の女性たちの富貴にして豪華、優閑にして享楽的な生活の姿である。
《相逢行》 崔
妾年初二八,家住洛橋頭。
玉?臨馳道,朱門近御溝。
使君何假問,夫壻大長秋。
女弟新承寵,諸兄近拜侯。
春生百子殿,花發五城樓。
出入千門裏,年年樂未休。
(相逢の行) 崔
妾が年は初めて二八、家は住む 洛橋の頭。
玉戸は馳道に臨み、朱門は御溝に近し。
使君は何ぞ問うを仮いん、夫壻は大長秋(皇后の近侍)。
女弟は新たに寵を承け、諸兄は近ごろ侯を拝す。
春は生ず 百子の殿、花は発く 五城の楼。
干門の裏に出入し、年年 楽しみ未だ休まず。
この貴戚の家の若い妻とその妹は宮中で寵愛を受け、夫や兄弟は侯に封ぜられ、あるいは官となり、彼女の生活は何の憂いも心配もない―(年年 楽しみ未だ休まず)である。
貴族の女性たちといえば、人々はすぐ有名な楊貴妃の三姉妹の韓国夫人、貌国夫人、秦国夫人の三人を思いだすだろう。楊貴妃が寵愛を受けたので、三姉妹は同時に国夫人に封ぜられ、玄宗から各人毎月十万銭を支給されたが、それは専らお化粧代としてであった。平生の皇帝からの賜り物は、さらに多く数えきれないほどであった。彼国夫人の「照夜瓊」、秦国夫人の「七葉冠」などは稀代の珍宝であった。韓国夫人は祝祭日に山上に百本の灯火を立て、その高さは八十尺もあり、煌々たる明るさは月光に勝って、百里の遠くからも眺められた。彼女たちはそれぞれ大邸宅をつくり、その華麗宏壮なることは皇宮に匹敵し、一台閣を造営するごとに費やす金は千万を越えた。もし規模が自分の台閣を越える建物を見たりすると、元のをとり壊して新しく造り直させた。遊覧に出かける時は一家あげて一団となり、みな同じ色彩の衣服を着、彼女たちの乗る車馬とお付きの従僕が道路を塞ぎ、それぞれの牛車の上に飾られた珍宝珠玉の値打は、数十万貫を下らなかった。車が通った後は装身具や珠翠が道いっぱいに落ちていた。ある時、彼女たちは宮中で玄宗の側に侍り音楽を楽しんでいた。玄宗は自ら鼓を打った後、笑いながら秦国夫人に褒美を求めた。秦国夫人は「私は大唐帝国の天子様の姉ですもの、お金が無いわけはないでしーっ」といい、すぐ三百万銭をとり出して笑わせた(以上の話は、『開元天宝遺事』、『明皇雑録』、楽史『楊太真外伝』等に見える)。
当時詩人の杜甫は、名高い「麗人行」なる詩を書いて、この三人の夫人が春遊する豪華絢爛たるさまを次の詩のように描写した。
《麗人行》杜甫
三月三日天氣新,長安水邊多麗人。
態濃意遠淑且真,肌理細膩骨肉?。
繍羅衣裳照暮春,蹙金孔雀銀麒麟。
頭上何所有,翠爲葉垂鬢脣。
背後何所見,珠壓腰?穩稱身。
就中雲幕椒房親,賜名大國?與秦。
紫駝之峰出翠釜,水精之盤行素鱗。
犀箸厭飫久未下,鸞刀縷切空紛綸。
黄門飛?不動塵,御廚絡繹送八珍。
簫管哀吟感鬼~,賓從雜?實要津。
後來鞍馬何逡巡,當軒下馬入錦茵。
楊花雪落覆白蘋,鳥飛去銜紅巾。
炙手可熱勢絶倫,慎莫近前丞相嗔。
(麗人の行)
三月三日 天氣 新たに,長安の水邊 麗人 多し。
態は 濃く 意は 遠くして 淑 且つ 真に,肌理きりは 細膩にして骨肉は ?し。
繍羅の衣裳は 暮春に 照はゆる,
蹙金の孔雀 銀の麒麟。
頭上 何 の有る所ぞ,翠を 葉と爲なして 鬢脣んに 垂たる。
背後 何 の見る所ぞ,珠は 腰?を 壓して 穩やかに身に稱ふ。
就中づく 雲幕の 椒房の親,名を賜ふ 大國 ?と秦と。
紫駝の峰を 翠釜 より 出いだし,水精の盤に 素鱗 行くばる。
犀箸 厭飫して 久しく未だ下さず,鸞刀 縷切 空しく紛綸たり。
黄門 ?を飛ばして 塵を動かさず,御廚 絡繹として 八珍を送る。
簫管 哀吟して 鬼神をも感ぜしめ,賓從 雜?して 要津に實つ。
後れ來きたる 鞍馬は 何ぞ 逡巡する,軒に當たりて 馬より下りて 錦茵に入る。
楊花 雪のごとく落ちて 白蘋を覆ひ,鳥 飛び去りて 紅巾を銜む。
手を炙ば 熱す可べし 勢は絶倫なり,慎みて 近前する莫れ 丞相 嗔らん。
彼女たちは富責と栄華が極まったばかりでなく、まさに「手を戻れば熱かる可し 勢い絶綸」であり、公主たちでさえを二分かた譲らざるを得なかった。各クラスの官僚が彼女たちの門下に出入し、へつらったり賄賂を送ったりして栄達を求めた。彼女たちが顔を出して頼み事をすると、役所は皇帝の詔勅のごとく見なして奔走し、不首尾に終わることをひたすら恐れた。一般の官僚で彼女たちに逆らおうとする人はいなかった。彼国夫人は章嗣立の宅地に目をつけると人を連れて行き、その家を有無を言わさずぶち壊し、章家にはただ十数畝の上地を補償しただけだった。
この三夫人は一時に天下第一の貴婦人になったが、しかしすべては楊貴妃が天子の寵愛を得た御蔭によるものであった。だから、彼女たちの運命も楊貴妃の浮沈によってたやすく左右されたのである。安史の乱の時、馬鬼の兵変で楊貴妃は絞殺され、三人の夫人も避難の途中で先後して殺され、遺骨も残らない悲惨な末路となった。
貴族の女性たちの中で、彼女たちほど豪勢で贅沢な生活をした人々は決して多くはないが、富貴で栄華を極め、金を湯水のごとく浪費するのは、貴族の女性に一般的なことだった。武則天の寵臣張易之の母阿蔵の家には七宝帳があり、その表面は各種の金銀珠玉で飾られていた。また彼女の家では象牙で床を作り、犀の角で筆を、紹の毛皮で柳を、こおろぎの羽で艶を、龍槃と鳳咽で席を、それぞれ作ったが、それらは当時の人々がいまだ見たこともないものだった(『朝野命載』巻三)。宰相王涯の娘は玉の銭を一つ買うために父親に十七万銭を求めた(銭易『南部新書』舌。貴族の女性たちの贅沢な生活の一端がうかがわれる。
貴族の女性は衣食住の心配も家事の苦労もなかったので、年中歌舞音曲とお化粧とで暇をつぶした。
「王家の少婦」(崔鎖)に「十五にして王昌に嫁し、盈盈と圃堂に入る(美しい姿で座敷に入る)。自ら衿る年の最も少きを、復た堺の郎(郎官)為るを倚む。舞いは愛す前鶏の縁(前銘曲の緑の装い)、歌は憐れむ 子夜の長きを(子夜歌の長い調べ)。閑来せて百草を闘わし、日を度るも汝を成さず(日がな一日お化粧もしない)」とあり、また「菩薩蛮」(温庭筒)に「瀬げに起きて蛾眉を両き、汝を弄んで槐洗すること遅し。花を照らす前後の鏡、花の面は交もに相映ず。新帖き誘羅の楼、双双の金の鶴鵠」とあり、さらにまた、「〔白〕楽天の春詞に和す」(劉瓜錫)に「新たに粉面を敗えて朱楼より下る、深く春の光を鎖して一院は愁う。中庭に行き到りて花栞を数えれば、蜻艇は飛んで上がる 玉の掻頭に」とある。 これらの詩詞は、貴族の女性の富貴にして優閑の様子を描いているが、しかしここには彼女たちのいくばくかの、空虚で無聊な生活もまた表現されているのである。
彼女たちは豊かといえば豊か、地位が貴いといえば貴かったが、しかしその富貴と地位の大半は、男性の付属物たる身分によって獲得したものであった。彼女たちに富貴をもたらすことができたものは、逆にまた災難をもたらすこともできた。一家の男が一旦勢力を失うと、彼女たちも同様に付属物として巻き添えになった。そして一夜にして農婦、貧女にも及ばない官婢(国有の奴隷)となった。これが彼女たちの最も恐れたことである。厳武は剣南節度使となって相当好き勝手に振舞った。彼が死ぬとその母はむしろほっとして、フ』れからは官婢にならないですむ」といった(『新唐書』厳挺之附厳武伝)。唐代の官僚貴族の女性として、不幸な運命にめぐりあった典型的な人がいる。それは粛宗・代宗両時代の宰相で権臣となった元載の妻王報秀である。彼女が高官の娘として元載の妻となった頃、元載はまだ功名がなく王氏一族から軽視されていた。すると妻は化粧箱を売って金に換え夫に功名をあげるよう励まし、ついに元載は宰相にまで上った。彼女は実家の家族がかつて自分たち夫婦を軽視していたのを恨み、実家の家族と親戚の者が御祝いに来た時、あてつけに侍女に命じて邸内で虫干の用意をさせ、長さ三十丈の長縄四十本を邸内に張りめぐらし、そのすべてに色とりどりの錦紗銀糸の豪華な衣装をかけ、さらにまた金銀の香炉二十個を並べて衣装に香を蛙きこめた。それは第一に自らの富貴を見せびらかし、第二に親族のものを恥じ入らせるためであった。一方で王轍秀は見識のある女性であったから、夫の元載が権勢を掌中に収めた時、夫を戒めて「ご承知のように、栄耀栄華などは束の間のことです、稿り高ぶって人を辱しめてはなりません」と言った。しかし、元載はやはり終りを全うすることができず、最後は罪を得て死刑に処せられた。妻の王氏は法によって官婢にならねばならなかった。彼女は天を仰いで長嘆息し、わたしは「王家の(排行)十三番目の娘と生れ、二十年間節度使であった父の娘として暮らし、十六年間宰相の妻であった。長信宮や昭陽宮でのことを誰か書いてくれる人がいるなら、死んでも幸せなのだが」といい、宮中に婢として入ることを固く拒み、ただ死ぬことだけを求めた。後に彼女は赦免されたとも、また笞打ちの刑を受けて死んだともいわれる(『雲渓友廉』巻こ一)。彼女の生涯のめぐり合わせは、まさに貴族の女性たちが夫の貴賤栄辱の運命のままに翻弄され浮沈定まらない生活をおくったことを反映している。
「栄耀栄華は束の間のことで長続きはしない」といつも恐れおののいていたほかに、貴族の婦人たちがそれこそ絶えず感じていたのは閑の孤独、夫の薄情に対する恨み、それに容色の衰え易さに対する嘆きであった。唐詩の中で百首に上る「閔怨」詩の大部分が、彼女たちのこの種の心情をよく表現している。たとえば、「閑の中の少婦(若妻) 愁いを知らず、春日 赦いを凝らして翠楼に上る。忽ち見る阻頭楊柳の色、悔ゆるは夫堺をして封侯を兌めしめしを」(王昌齢「閑怨」)、「妾は年四十にして糸は頭に満ち、郎は年五十にして公侯に封ぜらる。男児は全盛なれば日に旧きを忘れ、銀の昧 羽の帳は空しく〔風は〕鮑繩」(陳羽「古意」)などの詩。こうした心情は彼女たちがただ終日飽食し、何の心配もなく暮らしていたから生れたというだけではない。それよりも重要なのは、披女たちは下層の労働する女性たちに比べて独立した経済的能力が無かったため、男性に対する依存心が強く、また家庭の中でも地位が低かったために、夫の自分に対する感情に頼らざるを得なかった
ことによる。しかし、貴族の男たちは往々にしてたくさんの妻妾を持ち、あちこちで女色を漁った
ので、おのずから彼女たちは一日中夫の薄情に苦悩し、家庭の中での自分の行く末を案じ、従って
自分の容色の衰えを嘆く以外に為すすべがなかった。
白居易《上陽白髮人》
上陽白髮人
作者:白居易胡旋女→
文章被一個用?校對過,已經相当可靠。
愍怨曠也。
《新樂府》
天寶五載已後,楊貴妃專寵,後宮人無復進幸矣。六宮有美色者,輒置別所,上陽是其一也。貞元中尚存焉。
上陽人,紅顏暗老白髮新。
壕゚監使守宮門,一閉上陽多少春。
玄宗末?初選入,入時十六今六十。
同時采擇百餘人,零落年深殘此身。
憶昔?悲別親族,扶入車中不教哭。
皆雲入?便承恩,臉似芙蓉胸似玉。
未容君王得見面,已被楊妃遙側目。
?令潛配上陽宮,一生遂向空房宿。
(上陽 白髮の人)
上陽(宮)の人、紅顏暗く老いて白髪新たなり。
壕゚の監使宮門を守る、一たび上陽に閉ざされてより多少の春。
玄宗の末? 初めて選ばれて入る、入る時十六今六十。
同時に採擇す百余人、零落して年深く 此の身を殘す。
憶ふ昔 悲しみを?みて親族に別れ、扶けられて車中に入るも哭せしめず。
皆云ふ 入?すれば便ち恩を承くと、臉は芙蓉に似て胸は玉に似たり。
未だ君王の面を見るを得るを容れざるに、已に楊妃に遙かに側目せらる。
?(ねた)みて潛かに上陽宮に配せられ、一生遂に空房に宿す。
上陽の人は、紅顏暗く老いて白髪が新たである、
壕゚の監使が宮門を守っています、ここ上陽に閉ざされてどれほどの年月が経ったでしょうか、玄宗皇帝の末年に選ばれて宮廷へお仕えしましたが、その時には16歳でしたのが今は60歳
同時に100人あまりの女性が選ばれましたが、みなうらぶれて年が経ちわたしばかりがこうして残りました、思い起こせば悲しみを呑んで親族と別れたものでした、その時には助けられて車の中に入っても泣くことを許されませんでした
皆は入内すれば天子様の寵愛をうけられるといいました、あの頃のわたしは芙蓉のような顔と玉のような胸でした、だけれどもまだ天子様にお会いできる前に、楊貴妃に睨まれてしまい、妬みからここ上陽宮に押し込められて、一生を遂に空しく過ごしました
秋夜長,夜長無寐天不明。
耿耿殘燈背壁影,蕭蕭暗雨打窗聲。
春日遲,日遲獨坐天難暮。
宮鶯百囀愁厭聞,梁燕雙棲老休?。
鶯歸燕去長悄然,春往秋來不記年。
唯向深宮望明月,東西四五百回圓。
今日宮中年最老,大家遙賜尚書號。
小頭鞋履窄衣裳,青黛點眉眉細長。
外人不見見應笑,天寶末年時世妝。
秋夜長し、夜長くして寐ぬる無く天明ならず。
耿耿たる殘燈 壁に背く影、蕭蕭たる暗雨 窗を打つ聲。
春日遲し、日遲くして獨り坐せば天暮れ難し。
宮鶯百たび囀ずるも愁へて聞くを厭ふ、梁燕雙び棲むも老いて?むを休む。
鶯は歸り燕は去って長へに悄然たり、春往き秋來して年を記さず。
唯だ深宮に明月を望む、東西四五百回 圓かなり。
今日 宮中 年最も老ゆ、大家遙かに賜ふ尚書の號。
小頭の鞋履 窄【せま】き衣裳、青黛 眉を點ず 眉細くして長し。
外人は見ず 見れば應に笑ふべし、天寶の末年 時世の妝ひ
秋の夜は長い、夜が長くて眠ることもできず空もなかなか明けません、ちらちらと揺れる灯火が壁に影を写し、しとしと降る雨が窓を打つ音がします、
春の日は遅い、日が遅い中一人で坐し得いますが空はいつまでも暮れません、
宮殿の鶯が百度囀ってもわたしは悲しくて聞く気になれません、梁の燕がつがいで巣くっても老いた私には妬む気にもなれません、鶯は故郷へ帰り燕は去ってもわたしは悲しい気持ちのまま、季節が移り変わってもう何年になるでしょうか
ここ深宮で月の満ち欠けを見てきましたが、満月はすでに四・五百回も東西を往復しました、おかげで宮中第一の年寄りになってしまいました、天子様はそんなわたしに尚書の號を賜ってくださいました
、
そのわたしときたら先のとがった靴を履いてぴったりとした衣装を着て、黛で眉を描きますがその眉は細くて長いだけ、もしよその人に見られたら笑われるでしょう、これは天宝の昔に流行った御化粧なのです
上陽人,苦最多。
少亦苦,老亦苦。少苦老苦兩如何?
君不見昔時呂向《美人賦》,〈天寶末,有密采艷色者,當時號花鳥使。呂向獻
《美人賦》以諷之。〉又不見今日上陽白髮歌!
上陽の人、苦しみ最も多し。
少くして亦苦しみ、老いて亦苦しむ。
少くして苦しむと老いて苦しむと兩つながら如何。
君見ずや 昔時 呂向の《美人の賦》、又見ずや 今日 上陽白髪の歌
上陽の人は、苦しみが最も多い、若くしても苦しみ、老いてもまた苦しむ、若くして苦しむのと老いて苦しむのとどちらが辛いだろうか、どうかご覧あれ、昔は呂向の美人の賦、またご覧あれ、いまは上陽白髪の歌
上陽とは後宮のひとつ、天子に仕えるべく召し出されながら、天子のお傍に近づくことを得ず、空しく待機する女性たちを収める場所である、この楽府は、そこで一生を過ごした薄幸の女性の生涯を歌ったもの。